2005. 9. 18.の説教より

「 イエス様との関わりに生きる 」
ヨハネによる福音書 13章8−13節

 今朝の説教題を、「イエス様との関わりに生きる」とさせていただきましたが、私たちは、イエス様に、いつも何を期待しているでしょうか。また、どういうお方であることを願っているでしょうか。やはり、私たちのことをいつもしっかりと支え、力強く導いてくださるお方を期待し、願うということになっているのではないでしょうか。また、そうでなければ困るのではないでしょうか。力強ければ強いほど良いのではないでしょうか。こうしたことは、何もイエス様にというだけでなく、どのようなところにおいても言えることではないかと思われるのです。まさに、強いリーダーシップをもって自分たちを引っ張って行ってくれる人をです。しかしながら、イエス様が、私たちに示されているお姿というのは、私たちが期待し、願っているのとはだいぶ違うように思われるのです。これは、イエス様が弟子たちの足を洗われたときのことですが、弟子のペトロは、彼の足を洗おうとされたイエス様に対して、このようなことを言ったことが語られています。6節ですが、「シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、『主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか』と言った。」とあります。つまり、「そのようなことをなされては困ります」とペトロは言ったというわけです。おそらく、ペトロとしては、イエス様が自分たちのために身をかがめて足を洗ってくださることに戸惑いと共に、違和感と言いますか、抵抗を、受け入れ難いものを感じていたのではないかと思われるのです。ペトロにとってイエス様は、どこまでも力強く、それこそ時には、奇蹟的な御業を行われてでも、自分たちのことを引っ張って行ってくれるリーダーでなければならなかったのではないかと考えられるのです。また、それが、当時の人たちの多くが、ほとんどの人たちがと言っても良いのではないかと思われますが、期待していた「救い主」のイメージでもあったと言われています。私たちが考えているような、人に仕え、人のために十字架につけられて死なれるような「救い主」のイメージなど持ってはいなかったわけです。また、そうだからこそ、当時の人たちも、なかなか本当の意味で、イエス様のことを「救い主」として受け止めることができなかったわけです。だいぶ前のことですが、「もし、イエス様が、今の、この時代に、二千年前と同じように、目に見えるお方として来られたとしたならば、私たちは、イエス様のことを本当に受け入れることができるだろうか。」といった説教を聞いたことがあります。結論としては、「私たちが期待しているのとは、イメージしているのとは、イエス様が違うために受け入れられないのではないか。」というものでした。確かに、そういうところがあるかもしれないと思って聞いたことを覚えています。その意味では、私たちにとっても、力強く私たちを引っ張って行ってくれるリーダーとしてではないイエス様に目を向けることというのは、大切なことではないかと思われるのです。まさに、「弟子たちの足を洗われる」ことを通してイエス様が示された仕えられる者としてではなく、仕えるものとしてご自身を示されたことをです。
 とくかく、そのように、戸惑いと共に、足を洗われるイエス様に抵抗を感じたペトロに対して、7節ですが、イエス様は、こう言われたというのです。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」「今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」とです。聞くところによりますと、この「今」と「後」という言葉が、ギリシャ語の聖書では強調されているということです。つまり、「後」にならなければ、イエス様のことは本当の意味では分からないということです。言うまでもなく、この「後」にならなければと言いますのは、ここでの弟子たちが、まさに目の当たりにすることになるイエス様の十字架の上での死を通してでなければということであり、イエス様が私たちの最も低く暗いところにまで来てくださった神の御子であることが分かってこそ初めてということになるわけです。現在の私たちからすれば、イエス様の十字架の上での死が、なんのためであったのか、そこにはどういう意味があったのかを受け止めることなくしては、イエス様のことは本当の意味では分からないということです。ですから、私たちは、イエス様が私たちのために十字架にかかってくださったこととの関わりで、イエス様のことを考えることをしませんと、本当の意味で、イエス様のことは分からないということになるわけです。
 よく、こういう聖書の読み方がなされているのではないでしょうか。たとえば、マタイによる福音書の5章21−22節ですが、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」といったイエス様の言葉などを前にしますと、兄弟に『ばか』と言う者、『愚か者』と言う者は、厳しい裁きを受けることになるのだから、けっしてそのようなことを言ってはならない、注意しなければならないというふうに受け止めるだけならばまだ良いのですが、ついつい人のことを批判するようなことを口にしてしまっている自分は駄目な信仰者だ、駄目人間だと考えるようになってしまったり、人のことをあれこれ批判するために、イエス様のこの言葉を持ち出してということにでもなってしまったとしたら、たとえ、その批判していることが的を得たことであっても、たいへん不幸なイエス様の言葉の受け止め方となってしまうのではないかと思うのです。残念なことではありますが、得てしてそのようなかたちでイエス様の言葉が用いられていることが多いのではないかと思われるのです。そうしたイエス様の言葉の受け止められ方、用いられ方の問題点は、どこにあったのかと言えば、イエス様の言葉を、イエス様の十字架の上での死との関わりで本当の意味では受け止めてはいないことだと考えられるわけです。私たちは、どこまでもイエス様の十字架の上での死との関わりで、イエス様の言葉も、イエス様ご自身のことも考えなければならないわけです。
 今日の8節のところで、フィリポが、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言ったのに対して、イエス様が、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」と言ったやり取りが語られていますが、フィリポにとっても、ペトロと同様、イエス様はもっともっと力強いお方でなければならなかったのかもしれません。それこそ、誰もが驚くような奇蹟をもっともっと見せてもらわなければならなかったのかもしれません。私たちでも、それと同じようなことを考えることはあるのではないでしょうか。もっともっと、神様が、そして、信じているイエス様が、誰もが驚くようなことをしてくださったならば、神様を信じるようになる人が多くなるのにとです。人の足を洗われるような、人に仕えるお方で神様はあってはならないわけです。そこに、神様が、イエス様において私たちに示してくださっていることと、私たちが求めているところのこととのズレ、違いがあるわけです。
 当然のことながら、私たちが人との関わりの中に求めて行かなければならないことも、神様がイエス様において私たちに示してくださったこととなるわけです。12節で、イエス様が、「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」と言っておられることの意味は、まさに、そのことではないかと考えられるわけです。また、そのように、イエス様を模範として、人の足を洗うような、しいては人に仕えるようなあり方を私たちが求めているならば、「もっと大きな業を行うようになる。」とまで、イエス様は語ってくださっているわけです。しかも、13節ですが、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。」と語ってくださってです。このイエス様の言葉からしますと、私たちがイエス様のお名前によって願ったことが叶えられることが、父なる神様がイエス様によって栄光を受けることだというわけです。
 そうだとするならば、私たちが人との関わりの中でやっている力強いことではなく、見方によっては本当にとるに足りない小さなことが、その人のことを思ってやっていることこそが、イエス様によって大きな業とされる、大きな結果をもたらしていただけるのかもしれないわけです。ですから、小さなことしかすることができないということなど考える必要がないわけです。できることをすればよいわけです。